MUSKAのメモ

メモなのでけっこうすぐ消えます。

ダモクレス資料-8-NSB'er・銃剣・捕虜収容所・煙突掃除人・北極作戦/または Fall Nordpol

1協力と抵抗 NSB'er

レジスタンス博物館

3映画「ブラックブック」

4コラボラトゥール(Collaborateur)

5スパイ Anton van der Waals

6不発弾のニュース

7Englandspiel 北極作戦

8roetすすと煙突掃除人

9provocateur プロヴォカトゥール

10捕虜収容所 スタニスラウ

11銃剣Baïonnette

 

 

1 協力と抵抗 NSB'er
私にとって戦争というと、いつでも第二次大戦のことだ。関心があるだけでなく、新聞にもしょっちゅう出てくるので、そのたびに考えさせられる。
先月、ベルギー政府は初めて公式に、ユダヤ人追放と収容所送りに協力したことを認め、謝罪した。補償は10年前に既に始まっているのだが。そしてこれから本格化すると言っている。
去年の11月には、オランダ人の元ナチス親衛隊員(91歳)の逮捕の記事が出ていた(註)。ドイツのドルトムント検察によると、68年前の、レジスタンス活動家のオランダ人を銃殺した容疑だという。

ナチス親衛隊員は略して SS'er。日本でもSSというからすぐわかる。オランダ語で同じように頻繁に目にするのが NSB'er-これについて少し見てみよう。

NSBは「オランダ国家社会主義運動」Nationaal-Socialistische Beweging in Nederlandという政党の略。-'er がついているからその党員である。
小説では、ヘンリのタバコ屋の向かいにある、ドラッグストアの息子がそうだ。
この党はミュッセルト(Anton Adriaan Mussert1894 - 1946年)がコルネリス・ファン・ヘールカーケンらと共に1931年に設立した。彼はオランダで最も有名なファシストと言えるだろう。ところで、小説の主人公ヘンリは7歳年上のいとこと結婚するが、このミュッセルトはなんと20歳も年上の叔母と結婚した。また海軍志望だったが、身長が足りず、断念した。(話がそれてすみません)

さて1937年時点のオランダは、右派が勢力を拡大し、議会の半数を獲得するような状態だった。1940年4月、オランダ政府は非常事態を発令。そして5月10日、ドイツ軍が侵攻してきて、その後5年間にわたり、占領される。
NSBは、数百人ものユダヤ人が在籍しており、初期は反ユダヤ主義ではなかった。が、ナチスに接近しナチズムに統合されると、反ユダヤへと方針を変える。また党内部でも考え方の違いから確執や権力闘争が絶えず、決して一枚岩ではなかった。ネーデルランドSS設立に尽力し、のちに合流したフェルトマイヤー(Johannes Hendrik Feldmeijer 1910- 1945)は、ゲルマン民族血統の維持を唱え、オランダを第三帝国の一部とする統合を理想とした。一方ミュッセルトは、オランダ人の誇りから、オランダの独立を保ち、枢軸国の一つとなることを望んだ。

1945年ドイツの敗戦後、ミュッセルトは「オランダ王室に対する大逆罪」として死刑が言い渡された。戦時中ナチスが250人ものオランダ人を殺害した、その同じ場所で銃殺刑に処された。ちなみにフェルトマイヤーは、連合国の戦闘機から機銃掃射を受け、死亡した。(Historiek2007年の記事 Mussertから)

レジスタンス博物館

www.verzetsmuseum.org


ドイツの占領下で、良識ある勇敢な市井の人たちは皆、レジスタンス活動をしていたかというと、そんなことはない。人々の考え方も違うし、時期によっても異なるのである。ぜひ上の博物館に行ってみてほしい。当時の生活を、客観的に詳細に説明している。そこにはレジスタンスの英雄もいなければ、裏切者の糾弾もない。

ナチス・ドイツは占領当初、同じゲルマン系で言葉も近い隣の国なので、緩い温和な態度を取っていた。しかし徐々に抑圧を強めていく中で、オランダ人の抵抗活動も活発化した。様々な偽装書類や地下新聞から、秘密諜報活動や地下組織など、全体像がよくわかるようになっている。

実際、占領の5年間、一般の人々は心が振り子のように揺れたのである。占領を受け入れ、順応すべきか、協力するほうがいいのでは。ストやボイコットで抵抗しなくては。いや立ち向かい、報復すべきだ…など。
敗戦色が濃くなると、ドイツ側でもいろいろな動きが見られたように、オランダでも保身を考えてうまく立ち回ろうとする人たちもいた。

 

 3映画『ブラックブック』

戦争サスペンスとして楽しめる。

www.youtube.com

 

 

4。コラボラトゥール(Collaborateur)

一般に占領軍への協力、ここでは対独協力。「利敵協力」という用語もあるようだ。
この時代、ナチズムの思想に共鳴した者もいるだろうが、多くの人はやむをえない事情で、生活・家族のため、あるいは徴用という形で協力せざるを得なかったのではないだろうか。ドイツの敗戦が迫ると、今度は寝返ってみたり、保身や証拠隠滅のため残忍なことに手を染めた者もいただろう。戦中、戦後の混乱に単に乗じたならず者も…。

解放後には「浄化」の嵐が吹き荒れた。コラボ狩り、粛清である。残酷な仕打ちのようすは歴史資料で読むことができるし、写真も多い。

映画「ブラックブック」で主人公のエリスが辱めを受けるシーンを思い出していただきたい。Paul Verhoeven監督は「私が描いたことよりすっと酷いことがたくさん行われていた。アメリカ軍のアブ・グレイブ刑務所における捕虜虐待と同レベルだよ」と語っている。Verhoeven監督は当時7歳。ジープを追いかけてチョコレートをもらった世代だ。映画公開に際し、来日した時のインタビューに興味がある方はこちら。

http://www.nobodymag.com/blackbook/

 

5スパイ Anton van der Waals

ソ連崩壊後、機密文書や史料が読めるようになると、驚きの真実が次々と明らかになった。
去年私が驚いたのは、ココ・シャネルが「F-7124」「ウェストミンスター」というコードネームを持つ、ナチス工作員で、ヒムラーの命を受け、チャーチルと接触したという話。

アメリカのノンフィクション作家ハル・ヴォーンは、「誰も知らなかったココ・シャネル」(2012)の中で、シャネルが服を作らなかった空白の期間を徹底的に調べ上げ、世界に衝撃を与えた。著者自身、プロのスパイ、つまり国務省で秘密情報活動に携わっていた経験から、調査の手腕もピカイチなのである。シャネルの資料を見つけたのは偶然だと言っている。彼が調べていたのは Herbert Gregory Thomas(1908 - 1990 戦後シャネルの社長に就任。1972年まで)の方だった。

シャネル関係の資料は、ナチス・ドイツがパリからベルリンへ持ち出していたのを、ベルリン陥落時ソ連がモスクワへ持ち帰り、1985年まで文書庫で眠っていた。1985年ソ連とフランスの間で協定が結ばれたので、文書が返還されたといういきさつである。

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「二重スパイ」も戦争の話にはよく出てくる。オランダで一番有名な裏切者、de landverrader 「売国奴」と言ったほうが正しいだろう。それは Anton van der Waals(1912-1950)、写真の男である。ロッテルダム生まれで、子供時代は複雑な家庭環境だったらしい。NSB(昨日のブログを見てください)に在籍していた時期もあったが、活動は特にしなかった。

ドイツ侵攻後、初めはレジスタンス、すぐにナチスの親衛隊保安部(Sicherheidsdienst、略してSD)で使われるようになる。レジスタンス内では、Henk van Lyndenという偽名で活動していた。写真の妻(当時18歳)は、男爵でレジスタンス闘士と結婚したと思っていたらしい。

しかしこの男、80人以上のレジスタンスの人々を売り渡し、うち40人は死亡したという。1950年に銃殺刑。昨日のブログに書いたNSB党首、ミュッセルトと同じ場所で。(二人は名前も同じAntonですね)
ここはWaalsdorpervlakteという、デン・ハーグの近くにある場所で、大戦中250人ものオランダ人がナチスによって殺された場所である。

 

6不発弾のニュース

いつ戦争は終わるのだろう。今日も、ベルリンの爆弾処理騒ぎを見てそう思った。

第二次大戦中に投下された、ロシア製の100㎏の航空爆弾が、ベルリン中央駅のそばで見つかった。人々を避難させ、処理に当たった。ベルリンの地方紙を見ると、街に人が一人もいない写真が載っていて、不思議なシュールレアリスムの絵のように感じる。
ドイツではいまだにたくさんの不発弾がみつかるので、建築工事の前に、遺跡調査ならぬ爆弾調査が必須。オランダでも定期的に発見されるそうだ。

7Englandspiel,北極作戦

オランダ最大の戦争犯罪人のひとりVan der Waalsの裁判は、オランダ中の強い関心を呼び、ヘルマンスも注目した。言い逃れようと様々なまことしやかな嘘をつくのだが(たとえば自分と顔がそっくりな英国人諜報員が接近してきたなど)、裏がとれないし、不利な証言ばかりが出てきて結局死刑判決を受ける。

Van der Waalsは、実際1942~44年の、独英蘭諜報機関の情報合戦(作戦名オランダではEnglandspiel,日本語では「北極作戦/または Fall Nordpol」)に関与していた。

ヘルマンスはこの件から強いインパクトを受け、「ダモクレスの暗室」を書いたと言われている。

Auke Kok氏は元妻(その後再婚して子供を4人もうけ、夫が亡くなってから語り始めた)から話を聞き、2010年に本を出版した。

nos.nl

しかしこのKok氏は、1995年既に"De verrader, leven en dood van Anton van der Waals"という伝記を書いている。ヘルマンスはすぐにそれを読み、タイプ打ちで6ページの感想をFAXで送ってきたと Kok氏は語っている。辛口のコメントもあったが、褒めたり励ましてもくれたと。その一か月後にヘルマンスは74歳で亡くなるのである。

二重スパイ(de dubbelspion)といえば、King Kongも有名だ。本名 Christiaan Antonius Lindemans (Rotterdam生まれ、1912 - 1946。独房で自殺) 。

やはり初めはレジスタンス側だったが、ドイツ側に寝返って主にベルギー・イギリスで活動した。こちらは、あの有名な1944年の「マーケット・ガーデン作戦」(アーネムの橋が遠かった!)に関与した。

King Kongの件もヘルマンスにインスピレーションを与えたようである。

 

8roet すす
食事を作っているとき、鍋のなかに煙突からススが落ちて、せっかくのお料理が台無し。元の意味はここから。今でもよく見る表現です。「パーティーが盛り上がっていたのに、Aが来て悪ふざけをするものだから、台無しになった」と言いたいようなとき。
このススを掃除するのが schoorsteenveger

ドイツやチェコでは掃除人が向こうから歩いてくると、子供たちは一斉に走り寄り、手やボタンを触ります。そうすると幸せが訪れるという言い伝えがあるのです。
アンデルセンに「羊飼い娘と煙突掃除人」というのがありましたね。

http://www.geschiedenislokaal023.nl/media/15729/nl-hlmnha_5400465153.jpeg

http://l7.alamy.com/zooms/b3024f2e8d87456b99839b9b05130703/tallinn-chimney-sweeps-in-uniform-b962b6.jpg

https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/564x/63/7e/d4/637ed4e18de29fdfcb8017325de9e11e.jpg

 

 9provocateur プロヴォカトゥール

日本語でも「プロヴォカトゥール」、または秘匿エージェント。ここは「スパイ」にしておいた。

日本語の「スパイ」は、諜報活動などをする人の総称で、しかも敵に対してだけ「スパイ」と言う。味方は「諜報員」とか「エージェント」かな。職業にしている人から単なる協力者まで幅広い。「プロヴォカトゥール」は「そそのかす、挑発する」という意味があるように、敵を様々に攪乱する。

ここにドイツ側のプロヴォカトゥールXがいるとする。オランダ人Aは普通の市民をよそおいつつ、実はドイツ側に情報を売っている裏切者だ。レジスタンスやユダヤ人の隠れ家などを密告して稼いでいる。ところが図に乗ってきて、自分が売ったユダヤ人は資産家だから、もっと自分に分け前をくれてもいいと言い出し、大金を要求するようになった。しかも知り過ぎた男で、ドイツ側にとって、Aは邪魔で危険な存在でしかない。Xは始末するように頼まれる。Xはこの仕事をレジスタンス側にやらせる。巧みに情報を流す。「裏切者Aはいつ、どこそこに行くぞ」と。レジスタンスは売国奴を「処刑」する。運が悪ければ、そのレジスタンスは捕まることもある。

あるいは、一見重大そうな軍事機密を流して(実はガセ)、レジスタンス要員らを活動させ、様子を見てから、一人二人ではなく、一網打尽に捕まえる。

 

10捕虜収容所 スタニスラウ

http://www.eindhovenfotos.nl/levens35.jpg

Stanislau 1942-1945

イヴァーノ=フランキーウシク(ウクライナ語:Івано-Франківськ[

1662年から1939年までイヴァーノ=フランキーウシクは、スタニラーヴィウと呼ばれていたが、1939年にソ連によってスタニスラーウに改名された。さらに、1962年11月9日にウクライナ作家イヴァン・フランコーにちなんでイヴァーノ=フランキーウシクと名づけられた。愛称は「小リヴィウ」。(ウィキペディア

http://oorlogspost.yolasite.com/resources/vlooien.jpeg

 

11銃剣Baïonnette

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Prussian_bayonet.jpg/510px-Prussian_bayonet.jpg

19世紀のプロシアの銃剣

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cb/51432sweden.jpg/330px-51432sweden.jpg

スウェーデン近衛部隊が使用する銃剣

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ad/Cpe_french_bayonet_01.jpg/1024px-Cpe_french_bayonet_01.jpg

第一次世界大戦のフランス歩兵連隊

 

銃剣を持った兵士たち 1914年 ハーグ

Kriegsgefangenenpost

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Gewapend met geweer met bajonet wordt een groepje militairen vervoerd met paard en wagen. Ze moeten de orde handhaven tijdens de tramstaking. Den Haag, 1914.
Fotocollectie Het Leven (1906-1941)

 

1939年6月29日 オランダ軍将校たち 

http://www.eindhovenfotos.nl/foto_eten_officieren.htm

http://www.eindhovenfotos.nl/hotelMastbosch1939_groot.jpg

mobilisatie-periode

女王の日を祝う食卓で

hotel Mastbosch te Bredaにて)