MUSKAのメモ

メモなのでけっこうすぐ消えます。

父を捜して~日系オランダ人& 子どもたちの涙〜日本人の父を探し求めて

*これはメモです。忘れないための。

いずれメインブログに記事を書くかもしれませんが。

 

すばらしいドキュメンタリーです!

NHKBS1スペシャル「父を捜して~日系オランダ人 終わらない戦争~」

初: 2017年10月8日(日) 午後10時00分(110分)

www.nhk.or.jp

NHKサイトから) 「父を捜す」・・・それは自分と向き合うこと、人と繋がること。過酷な運命を乗り越えようとする人々の強さを感じてほしい。

 日系人の父親捜しを支援している方々の熱意には、取材中、心を打たれました。
父親捜しはSOO(アジア太平洋戦争日本関連史資料および学術連絡支援財団)が中心になっています。メンバーはオランダに暮らす日本人女性たちです。日系人から聞き取りしたあと、膨大な公文書から父親の手がかりを見つけだし、日本での調査も重ね、親族たちとの交渉にもあたります。この気の遠くなるような作業を、少人数の日本人女性たちが懸命に取り組んでいました。彼女たちを突き動かす「過去の戦争に対し、日本人として自分たちが出来ることは何か?」ということを、私自身も考えさせられました。

父親探しに多大なる貢献をした方の表彰。こちらも調べてみました。

社会貢献支援財団  〒105-0003 東京都港区西新橋1-18-6受賞者紹介 : 社会貢献者表彰
内山 馨  氏 (大12.11.16生 82歳/大阪府
オランダ人日系二世の依頼に応えて日本人父親探しの困難な努力を続け、多くの成果を挙げて彼等に心の平安と喜びを与え、日蘭親善に貢献している。 推薦者:難波 収. ローゼンダール弘子・寺本. 綿貫 葉子

内山 馨(うちやま かおる)90歳: whisper's jive

・・・(オランダ人日系二世の人たちは)

後年自らの隠されたルーツを知り、実父またはその遺族に会いたいと願うが、彼らは父親に関する情報をほとんど持っていなかった。

日本の機関や諸団体に捜索を依頼したが、不十分な手がかりと当事者の高齢化、さらにデリケートなプライバシー問題や複雑な社会情勢などが絡んで、捜査は極度の困難と緊張を伴うもので成果は乏しかった。

当時72歳の父は、軍人として同国に駐留し、戦後は新聞記者として勤務した経験と知識・人脈を生かして日系二世オランダ人のために、日本での父親探しを本格的に開始した。

大戦中の資料収集のため官公私の関係機関に記録閲覧を請い、父親と思われる人物や当時の同僚を突き止めると、調査のために遠方であっても自らその地に出掛けて行った。

手がけた捜査は約70件に達し、そのうち30人以上の家族を見つけ出した。多くは既に他界していたが、その遺族と接触して家族との交流を可能にし、幸い存命だった者は子供を認知して面会を実現させた例もあった。

父親ないし家族との交流が出来た二世達は、長年のトラウマから解放され心の平安と大きな喜びを得る事が出来た事を感謝しているという。


www.kobe-np.co.jp

子どもたちの涙〜日本人の父を探し求めて〜 IMA国際映画賞2014 短編ドキュメンタリー部門金賞受賞(*動画がもう見られなくなっている)
www.dailymotion.com

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公式サイト

ドキュメンタリー映画「子供たちの涙〜日本人の父を探し求めて〜」

http://www.childrenstears.net/img/index_09.gif 

http://www.jin-info.nl/ja/over-ons/

 (部分引用)

ジャパン・ルーツ

1983年にシェリー・ランデヘント(Cherie Landegent)とヒデコ・ヒースケ・エーレントレイヒ(Hideko Gieske-Erentreich)の二人が交流グループを立ち上げメディアの全国誌で呼びかけを行いました。両人は既に訪日の経験があり同様の背景を持つ多くの日本人の血を引く子供たちと知り合いたいたいと希望していました。彼らは社会に沈殿していた沈黙を破り、オランダ社会で彼らのことが知られるようになり、いくつもの新聞やラジオのインタビューに応えました。そして最初に5名がその呼びかけに応じました。しかしオランダ国内ではまだ日本占領時代の犠牲者たちの記憶が生々しく、それが表面化してきており彼らにはまだ期は熟したものとはいえませんでした。日本人を父とする子供たちが一堂に会することになったのは1989年のことでした。相互扶助、情報の交換、彼らの抱える問題に対する社会の認知を求め日本で彼らの父親捜しをする方策を探したいと考えていました。そのようにして1991年2月1日にJIN協会が設立され議長としてRon Hilgersが選出されました。名称の由来はJapans-Indische Nakomeringen (日本・インディシュの子孫)から採られています。 JINの会というのは、第二次大戦中(後)生まれた、インドネシア系オランダ人を母に、日本人を父に持つ混血児の会です。当協会はそんな人々にとってアイデンティーを確立し自信を取り戻すという点で非常に大切なものです。

1991年の JIN協会

ベアトリクス・オランダ女王の訪日に際して女王は天皇家を表敬訪問しました。その時にJINは女王に宛てて書簡を奏上しました。そのことが日本で新聞記事となり日本・オランダ・ヨーロッパ系の子孫のことが知られるようになります。当時ジャワに駐留していた日本人が娘を探しており。偶々そんな記事を読み、その結果オランダで娘を見つけ出すことになります。オランダを訪れた父親Kazuo Sato氏とその娘Fredaの対面の様子はオランダのテレビで放映され視聴者の間に深い印象を残しました。これにより協会会員数も増えるようになるとともにSato氏はJINの父親探しに助力の手を差し伸べてくれました。

父親捜し

多くの子供たちは当時は既に50近くに達しており彼らの父親捜しに取り組んでいました。残念なことに多くの資料は不完全で且ついつも正確なものであるとはいえませんでした。政府関係からの公式な動きはなく言葉の壁は大きいものでした。オランダ、日本側双方では1991年以降、追跡調査が開始されてはいたものの結果としては残念なことにゼロでしかありませんでした。父親を探している者たちにとっては痛ましいものであり、もう遅すぎるのだはないかというような焦りの感情も湧き、不満と緊張が高まるようになります。その結果、インドネシア時代の母たちの若い時の写真を集めてポスターにして当時付き合っていた日本人の男性を探しているとの説明を付け日本で配布しようという創造的ではあるけれど一時的なアイデアが採用されJIN協会の中で実行委員会が設立されました。

1994年 協会の分裂

当時の役員は上記の案を支持していたけれど実際には役員会の書記と実行委員会の委員長の間には実行を巡って緊張関係がありました。役員会と実行委員会の溝を調停する試みは失敗に終わり、役員会議長である Richardは調停委員Baukeの報告書を受け入れず、それにより会員全員に依る総投票により大多数役員会の態度に反対の票を投じこれにより敗れた議長と書記は会員であることを止め、新たに自らの協会を立ち上げました。当協会にとってはこの出来事は大きな打撃となりました。この分裂がもたらしたものは良好なものではなく今なおその影響は無視できないものがあります。この点についてはしっかり認識する必要があるものとしてここに記す必要があると思います。それから20年経過した現在でも再結成の試みが成功していないことに鑑み、会員内にはいまだに当時の総投票に依る決定に対して否定的な意見を述べる者もいます。

1995年の進展

新しくなったJIN協会は問題のあった時に調停委員として活動した バウケ・ターレンス(Bauke Talens)を議長、問題にかかわりのなかったヒデコ・ヒースケ・エーレントレイヒを書記として1995年の秋に再活動を始めました。新役員には容易い役目ではなかったものの会員ほぼ全員が役員を信任しました。これにより当協会は同じ目的をもった同志の本来のJIN協会の活動に専念することとなりました。

1995年以降の内山氏による父親捜索活動

JINは実際に活動を始めたけれど旧役員との接触は途絶え、ヒデコは書記として1995年の秋に日本に旅行し、九州水巻では十字架記念碑に参拝しそのとき蘭印領に於ける旧オランダ兵捕虜及びその遺族の会(EKNJ)のDolf Winkler氏と出会います。11月には大阪で関西蘭印旧軍人会の会合で旧軍人であり元読売新聞記者の当時71歳の内山馨氏に知遇を得、氏の日本人父捜索活動に助力しようとの申し出を受けるることになりました。 京都にある聖フランシスコ教会のサレミンク(Salemink)牧師による仲介、並びに通訳、翻訳への助力をも得ました。これらの協力によりJINは1996年1月より会員10人ほどの父親捜索活動に入りました。内山氏は約40人の父親やその家族を探り当てました。2013年には内山氏は東京のオランダ大使からその労力と功績に対して感謝状を受けました。

日本への活動旅行

内山氏の成果により会員間に日本訪問への希望が募り1997年にはヒデコは、蘭印領における旧オランダ兵捕虜及びその遺族会(EKNJ) との合同訪日旅行を組織してJIN会員を日本に送りました。16名の会員は自費で参加し、訪日団とは別の行動を取ることもありました。EKNJと合同でもたれた日本大使との会合は更に活動の助けになりました。1998年にはこの日本旅行プログラムは日本政府後援の平和交換プログラムとして資金援助を受けることになります。これによりJIN会員は毎年日本の父の捜索活動と父の国を知るための旅行が可能になり1998年以降100人以上の会員が日本の土を踏んでいることとなっています。

諸会合

この2,3年に4回の会合をもっています。それは会の施策と会計を確認する「年次総会」「家族親睦日」と「JIN関連親睦日」です。この会には毎年、会員、その家族、友人、外部団体からのゲストが集い、日本やインドネシアの文化講演会のあと音楽が供されインドネシア料理で締めるという様式の様々な催し物が執り行われます。「日蘭文化センター(JNCC)」の吉岡女史は例年日本から音楽・舞踊のグループを招待してこれらの会の折にそのイヴェント実行の労を執ってくださいます。

社会的活動

JINの重要な目的は当初から次のものでした。我々が存在することに対する沈黙を破ること、そして我々の存在に対する社会的認識をえることです。これらの目的に関しては我々の活動を通じて一定の成果を得ました。 JINは1999年にはインドネシア関係の諸問題を各政府と折衝する団体 (Indisch Platform (I.P.)) に加わりました。 これらの成果により精神的・心理的に助けの要る日本・インドネシア係累にも光明が見えるようになりました。また1999年には1945年8月15日追悼協会との協力関係をもつことになりました。これにより日本の父をもつ子供たちは戦争の歴史の一部分として公に記念・追悼の場で認識を得ることとなりました。2016年 1月 23日

 

東戦争関連協会(Stichting Oorlogsgetroffennen in de Oost(S.O.O.))

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cenecio.hatenablog.com