MUSKAのメモ帳

倉庫のようなもの。記事は消えることが多い。

プラハの春 クルド人が案内する修学旅行 フランスの塩

メモ

mainichi.jp

引用

・・・「ゆきゆきて」の主人公は、元日本兵奥崎謙三さん(2005年、85歳で死去)。第二次大戦でニューギニア戦線に従軍した数少ない生き残りだ。傷害致死事件で服役後、一般参賀昭和天皇に向けてパチンコ玉を発射する事件を起こした。

 警察も、世間の目も気にしない奥崎さんはあの戦争に固執し続け、元上官や同僚を訪ね歩く。そして、日本兵が飢えのあまりに仲間の遺体を食べて生き延びたと、戦時中の「罪」を告白させていく。

 原さんが同行取材したのは82~83年だった。奥崎さんの戦争責任の追及は、常に荒々しさが伴った。古里で平穏に暮らす老人を罵倒し、時に馬乗りになってこぶしを振るった。そんな行動に密着した原さんは「怖くてしかたがない」と感じ、「こんな映画を撮ったら世間から非難を浴びると思った」と振り返る。

・・・

 「いつの時代でも、生きていくのは大変なこと。時代との関係の中で、時代が差し出す課題を受け止めて生きなければいけない」と原さんはそうした心情を受け入れながら「理不尽な目に遭ったのなら、もっと文句を言っていい。もっと自由にモノを言って、自己主張していい」とも思う。周りに気遣い過ぎれば事なかれ主義を招き、結局は権力を下支えする構図を生むと考えるからだ。

 原さんは「カメラは世間に通じている」と感じている。カメラを回して映し出された表現を、世間がどう受け入れるかは、時代によって変わると考えている。

 「ゆきゆきて、神軍」の公開から30年。昭和の時代が良かったわけではないが、「あらゆる場面で微妙な『守り』の空気が、今はずっと強まっている」と感じている。

 

東京新聞

五日市憲法50年

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クルド人が案内する修学旅行 東京新聞

おもしろいアイディア

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bunshun.jp

 引用

(高畑)「そうやって煽って、この作品を公開しようということですか」(鈴木)「そうです。お金もかかってますし、お客さんに来てもらって、回収もしたいですからね」。僕が答えると、高畑さんはそういうことには協力したくないと言いだしました。ある時期から、高畑さんは僕の行う映画宣伝がプロパガンダ的だといって、批判的になっていたんです。

 結果的に『かぐや』の進行は再び遅れだして、公開は11月に延びることになりました。それによって同時公開の夢は潰えるわけですが、僕はそれならそれでいいと思ったんです。こうなったら意地と意地のぶつかり合い。どこまでも我慢比べをしてやろうと決めました。

・・・

どんな人の人生にも功罪両面があるし、映画監督という仕事をしている以上、いつもいい人でいることはできません。人の人生を変えてしまうこともあるし、ときには恨まれることもある。とくに高畑さんの場合、いい作品を作ることがすべてであって、その他のことにはまったく配慮しない人でした。よくいえば作品至上主義。でも、そのことによって、あまりにも多くの人を壊してきたことも事実です。

火垂るの墓』の作画監督を務めた近藤喜文もそのひとりでした。最初で最後の監督作となった『耳をすませば』のキャンペーンで仙台を訪れた日の夜、高畑さんのことを話しだしたら、止まらなくなりました。「高畑さんは僕のことを殺そうとした。高畑さんのことを考えると、いまだに体が震える」。そう言って2時間以上、涙を流していました。彼はその後、病気になり、47歳で亡くなってしまいます。火葬場でお骨が焼き上がるのを待つ間、東映動画以来、高畑・宮崎といっしょに仕事をしてきたアニメーターのSさんがこう言ったんですよ。「近ちゃんを殺したのは、パクさんよね」。瞬間、場の空気が凍りつきました。ある間をおいて、高畑さんは静かに首を縦に振りました。

・・・

火垂るの墓』の製作に携わった新潮社の新田敞さんがいみじくも言っていました。「松本清張柴田錬三郎安部公房、いろんな作家と付き合ってきたけど、あんな人はいなかった。高畑さんと比べたら、みんなまともに見える」

 僕もいろんな人を見てきましたけど、高畑さんみたいな人は他にいません。高畑さんはスタッフに何かをしてもらっても、感謝したことがありません。いっしょに作品を作っているのだから、監督として感謝するのはおかしいという考え方なんです。論理的なのかもしれないけれど、人間的な感情に欠ける、破綻した考え方ですよね。

「パクさんに映画を作らせようとしたのは鈴木さんひとりだ。誰もそんなことは望んでいなかった」。宮さんにそう言われたこともあります。でも、そういう宮さん自身、『アルプスの少女ハイジ』のとき、仕事をしようとしない高畑さんを毎日家まで迎えに行って作らせているんです。もっと遡るなら、東映動画時代、作画監督大塚康生さんが、「高畑勲が演出でなければやらない」と言ったことによって、高畑さんの監督デビュー作『太陽の王子 ホルスの大冒険』は作られることになりました。

・・・

 だから、僕は高畑さんと40年間付き合ってきて、いちども気を緩めたことがありません。その緊張の糸は、亡くなったいまでもほどけないんです。こんな気持ちってないですよね。美しい言い方をすれば、いまも心の中で生きている、ということになるんでしょう。でも、そういう気持ちじゃないんですよ。成仏してほしいのに、あの世へ行ってくれないんです。この気持ちは何なのか。あの人は何だったのか。僕も宮さんも、その答えが知りたくて、亡くなった日からずっと2人で“通夜”を続けているんです。

 じつは、いま宮さんが作っている『君たちはどう生きるか』の中に、高畑勲と思しき人が登場します。この人物を宮さんがどう扱うのか、興味深いです。高畑さんが亡くなったあと、順調だった絵コンテがもう2カ月余ストップしています。そんなわけで、僕はいまだに高畑さんの冥福を祈る気持ちにはなれないんです。第三者には分かりにくいかもしれません。でも、それがいまの正直な心境です。・・・

ジブリの教科書19 かぐや姫の物語」 より転載(インタビュー・構成 柳橋 閑)

 

すてきな打楽器奏者たち

 森永ミルクキャラメルティー

プラハの春

コラム凡語:「プラハの春」50年 : 京都新聞

コラム凡語:「プラハの春」50年
 誰もが自由に集い、意見を語り、政治を批判する-。50年前の1968年に共産圏の旧チェコスロバキアで花開いた民主化運動「プラハの春」。旧ソ連軍を中心とする戦車が占領、弾圧したのは8月20日深夜だった▼改革を進めたドプチェク共産党第一書記らが拉致され、モスクワで検閲の復活や改革派更迭などを約束させられた▼帰国しラジオで語ったドプチェク氏の言葉に全国民が耳を傾けた。話そうとしても話せない「長いすさまじい間(ま)」、そこに「国にふりかかったありとあらゆる恐怖があった」とチェコ出身の作家ミラン・クンデラ氏は小説「存在の耐えられない軽さ」で記した▼有識者や学生ら広範な市民が戦車に立ちはだかった。かつてナチスドイツに占領され左右の圧政に耐えた国。「人間の顔をした社会主義」という標語は体制転換ではなく自由で平等な社会への強い願いを示していた▼共産党政権は21年後に崩壊し、チェコスロバキアは平和裏に分離独立した。政権転覆や独立を果たしても新たな独裁や内戦に陥る国は少なくないが、両国とも民主的な体制を維持している▼日本では、特定メディアへの政治家の「圧力」や、批判的言論を「偏向」と決めつける動きが後を絶たない。この国が今後も自由であり続けるのか、予断を許さない。

[京都新聞 2018年08月12日掲載] 

www.asahi.com

引用

・・・ 「プラハの春」ではチェコスロバキア共産党政権が自ら民主化を進め、「人間の顔をした社会主義」を目指した。しかし、ソ連など社会主義諸国からなるワルシャワ条約機構軍は68年8月20日深夜にプラハに侵攻。抵抗した多数の市民が犠牲になり、後に東欧革命が起きた89年にはソ連も当時の侵攻を誤りと認めた。

 今回の調査で「プラハの春」へのロシア国内の否定的な見方は10年前の同じ調査より18ポイント伸びた。「ソ連支配の体制に対する反乱」や「民主改革の試み」と肯定的に見る回答は28%で、侵攻を「正しくなかった」としたのは19%。最初の質問で「プラハの春」について「何も知らない」と答えた人は10年前より9ポイント減って46%だった。

・・・

www.tokyo-np.co.jp

 

問題のネオニコチノイド系農薬を検出 ペットボトルは気をつけて。

有機農業ニュースクリップ:■国産茶葉 全てからネオニコを検出 スリランカ産は検出ゼロ

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 手作りの塩 フランス

Gruissan (en occitan Grussan)

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[https://www.francetvinfo.fr/animaux/gruissan-la-renaissance-des-salins_2900355.html#xtor=EPR-744-[newsletterjt]-20180817-[sujet4]:embed:cite]

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/Vue_sur_le_vieux_village_de_Gruissan.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Gruissan_vignes_et_salins.jpg/1024px-Gruissan_vignes_et_salins.jpg

写真:2枚ともウィキペディアより

 

 

 

おもしろいブログ「社会科学者の随想」さん

blog.livedoor.jp

 山室信一氏のことば:「いま進んでいることは,日本の満洲国化だと思っています」

「安倍〔晋三〕さんは『自立する国家』をかかげてきました。でも現実には,特定秘密保護法やTPPなどで,アメリカのかいらい国家という性格が強くなってきているのではないか。理想国家の建設をかかげながら,日本のかいらい国家への道を歩んだ満洲国に似てきています」

・・・

赤塚不二夫が創作した「バカボンのパパ」のモデルは,満州国関東軍憲兵だった〔のちに特務警察官となり,現地の人びとによる反満抗日運動をとりしまる任務に就いていた〕 父親であった。この父親は第2次大戦敗戦直前,ソビエト軍に連行され,シベリアに抑留された。日本に帰れたのは1949年であった。残された家族は 1946年,母の郷里である奈良県大和郡山市に引き揚げ,ここでその間3年ほど生活したという。

 満州国の特務警察官時代の父親を,赤塚はこう描いている。

 おやじの首には当時の金で2千円の賞金がかかっていた。当時としては途方もない大金である。

 べつに護衛に守られていたわけではないおやじが,裏切りや密告によってつかまる可能性はそれほど低くはなかったはずだ。おやじが砦の外の村へ出たとき,村人の1人が敵に連絡すればそれまでである。

 だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで,おやじだけではなく赤塚家も襲撃されることがなかった。

 砦には時々,さまざまな物資を積んだトラックが到着した。おやじはその物資をよく村人に分けていた。

「敵も味方も同じ人間じゃないか」

 なにか見返りを期待したわけではない,こちらに真心があればそれは必ず相手に通じるはずだ --これがおやじの人間観だった。

 

 「社会科学者の随想」さんのブログから一部抜粋引用させていただきました。

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